「神林さん、またスマホ見てるの?」
突然の声に、私は慌ててスマホを机の下に隠した。振り返ると、桧葉彩音がにこやかな笑顔で私を見下ろしていた。
彩音は私のクラスメイトで、学年でも一、二を争う美人だった。サラサラの長い黒髪、大きくて澄んだ瞳、整った鼻筋に薄いピンクの唇。まさに理想的な美少女という言葉がぴったりの容姿をしている。
「あ、えっと……」
私はどぎまぎしながら答えに窮した。授業中にこっそりとショウからのメッセージを確認していたのを見られてしまったのだ。
「別に怒ってるわけじゃないよ。ただ、最近よくスマホを見てるなって思って。なにか楽しいことでもあるの?」
彩音は小さく笑った。
その笑顔は一見優しそうに見えたが、なぜか私は背筋がぞくりとした。彩音の瞳の奥を見ていると、なにか冷たいものを感じる。「別に、楽しいだなんて、そんなことは……」
「そう? でも最近、ちょっと雰囲気変わったよね。前よりも明るくなったっていうか、楽しそうっていうか」
彩音は私の隣の席に腰かけた。近くで見ると、彼女の美しさがより際立って見える。透き通るような白い肌に、まつげの一本一本まで完璧に整っている。
私はこんな美しい人の隣にいることが恥ずかしくて、つい顔を逸らしてしまった。「私なんて、そんな……桧葉さんみたいに綺麗じゃないから……」
「謙遜しなくていいよ。女の子は恋をすると綺麗になるって言うじゃない」
――恋。
その言葉にドキッと心臓が大きく鳴り、手に汗がにじむ。まさか、彩音に私の気持ちが見抜かれているのだろうか。
「恋だなんて、そんなこと……」
「あれ? 違うの?」
彩音は首を傾げた。仕草の一つ一つが、私と違ってとても綺麗に見える。
美人だと動作の一つでさえ、私とはこんなにも違うんだ。「てっきり、素敵な人でもできたのかな、って思ったのに」
私は必死に平静を装おうとしたが、頬が熱くなるのを止められなかった。きっと今、真っ赤になっている。
「本当に、そんなことないです。素敵な人だなんて、そんなことないです」
「ふーん」
彩音は私の顔をじっと見つめた。
「でも、神林さんって意外と可愛いところあるんだね。真っ赤になっちゃって。そういう恥ずかしがってる顔、初めて見た」
可愛い。
彩音のような美人に「可愛い」と言われるなんて、あり得ない。きっと社交辞令なのだろう。でも、それでも少しだけ嬉しかった。
「あ……ありがとうございます」
「どういたしまして」
彩音は立ち上がった。
「また今度、色々と聞かせてね」
そう言って、彩音は自分の席に戻っていった。
私はほっと胸を撫で下ろした。しかし同時に、なぜか嫌な予感が心の奥に残っていた。色々聞かせて、だなんて。特に親しくもないのに、私のなにを聞きたいんだろう? 彩音が興味を惹くようなことなんて、私にはなにもないはずなのに。昼休み、いつものように屋上に向かう途中、廊下で彩音とすれ違った。
「神林さん、一人でお昼?」
「はい」
「寂しくない? よかったら一緒に食べる?」
私は驚いた。彩音は普段、同じように美人で人気のある友だちのグループと一緒にいる。そんな彼女が、私のような地味な子に声をかけてくれるなんて。さっきのこともあって、私は少し警戒していた。
「でも、桧葉さんは、いつもお友だちと一緒じゃ……」
「今日はたまたま一人なの。お願い、付き合って」
彩音の頼みを断る理由は見つからなかった。それに、せっかく優しくしてくれているのに、断るのは失礼な気がする。
「わかりました」
私たちは中庭のベンチに座って、お弁当を広げた。彩音のお弁当は色とりどりで美しく、まるでレストランの料理のようだった。それに比べて私のお弁当は、母が作ってくれた普通の家庭料理で、なんだか恥ずかしくなった。
「神林さんのお弁当、美味しそう」
彩音は微笑んだ。
「手作りなの?」
「母が作ってくれました」
「いいな。私のは家政婦さんが作ってくれるんだけど、なんだか味気なくて」
家政婦さん。やはり彩音は私とは住む世界が違うのだ。
「でも、とても綺麗ですね。すごく豪華で素敵です」
「見た目だけはね。神林さんは、将来、なにになりたいの?」
突然の質問に、私は戸惑った。
「まだ、よくわからなくて……」
「そう。私は絶対に女優になりたいの」
女優。確かに彩音の美貌なら、その夢も現実的に思えた。
「きっと、素敵な女優さんになりますね」
「ありがとう。でも、この世界って結構大変なの。見た目だけじゃダメで、演技力も必要だし、なにより運も大切」
彩音は遠くを見つめながら続けた。
「だから私、普段から色んな人を観察してるの。人の心の動きとか、表情の変化とか。演技の参考にするためにね」
その言葉に、私は少し不安を感じた。もしかして、彩音は私のことも「観察」しているのだろうか。
「神林さんも、恋をしてるときの表情、とても参考になるわ」
私の心臓が止まりそうになった。
やっぱり観察されているんだ……。「恋だなんて……私にはそんなのは……」
「大丈夫、秘密は守るから」
彩音はウインクした。
「でも、相手はどんな人なの? 同じ学校の人?」
「あの……本当に全然そんなのじゃなくて……」
「気になるな。神林さんみたいな真面目な子が恋をするなんて、きっと素敵な人なのね」
彩音の質問攻めに、私は困ってしまった。でも、彼女の興味は純粋なもののようにも思えた。女優になりたいと言って、演技のために人の心のことまで見ているなんて、きっと本当に夢を追いかけているんだろう。
綺麗な人は、なんでも簡単に手に入れられるイメージがあったけれど、本当はとても努力をしているのかも……。
少しだけなら、私の話をしてもいいんじゃないかと思ってしまった。「実は……会ったことのない人なんです」
「会ったことのない?」
彩音の目が輝いた。
「もしかして、ネットで知り合ったの?」
私は頷いた。
「すごい! まるでドラマみたい」
彩音は手を叩いた。
「どんな人なの? 写真は見たことある?」
「写真は……見たことないです。でも、とても優しい人で……」
「素敵ね。でも、会わないの?」
その質問が、私の一番の痛いところを突いた。
「会えないんです」
「どうして? 好きなら会いたくなるでしょ?」
「私が……醜いから」
自分の口からその言葉が出た瞬間、私は後悔した。なぜ、彩音にそんなことを話してしまったのだろう。
「醜いだなんて、そんなことないよ」
彩音は私の手を握った。私の目を覗き込んで、真っ直ぐに見つめてくる。
「私は、神林さんは十分可愛いと思うよ」
その優しさが、逆に私を惨めな気持ちにさせた。美しい彩音からの慰めの言葉が、かえって自分の醜さを際立たせるように感じられた。どう答えていいかわからずに、私は当たり障りのないお礼を返した。
「ありがとうございます」
「今度、その人とのやり取り、見せてもらえる? どんな会話してるのか興味があるの」
私は慌てて首を振った。軽い話はできても、ショウとの会話を誰かに見せるなんて、そんなこと絶対にできっこない。
「それは……恥ずかしいです」
「そっか。二人だけのやり取りなんだもんね。でも、いつか見せて欲しいな」
彩音は笑顔で言った。
「きっと素敵な恋愛だと思うから」
その日の午後、私は彩音との会話を思い返していた。
彼女は優しかった。私の恋愛話に興味を持ってくれて、醜いと言った私を励ましてくれた。それなのに、なぜか心の奥で警戒心が消えなかった。 あの美しい笑顔の裏に、なにか別のものが隠されているような気がしてならなかった。単純に私の被害妄想かもしれない。
きっと彩音は、本当に優しい人なのだろう。あんなに美しくて気持ちも優しい人なんて、素敵な人なのかもしれない。 そう自分に言い聞かせながら、私はショウからのメッセージを開いた。『今日はどんな一日だった?』
いつもの彼の優しい言葉に、私の心は温かくなった。でも同時に、彩音に話してしまったことへの後悔も込み上げてきた。
この秘密は、私だけのものにしておくべきだったのかもしれない、と……。
スマホの画面を見つめながら、私は震える指で文字を打ち続けていた。もう何時間も、この一通のメッセージを送ることができずにいる。「拓翔へ。これが最後のメッセージになります」 削除して、また打ち直す。何度繰り返しただろうか。でも、もう私は決めていた。この関係を終わらせると。 昨日から、拓翔は必死に私を慰めようとしてくれている。『写真を見たけど、紀子は僕が思っていた通りの優しい人だよ』『容姿なんて関係ない、紀子の心が好きなんだ』『今度こそ、直接会って話そう』と。 優しい言葉の数々。きっと、彼は本当にそう思ってくれているのだろう。でも、その優しさが、逆に私の心をえぐるのだ。 私は醜い。それは紛れもない事実。鏡を見るたびに、自分でも嫌になるほどの容貌。そんな私を見て、本当になにも感じないなんてことがあるだろうか。きっと、拓翔は優しいから、私を傷つけまいと嘘をついてくれているに違いない。「拓翔、今まで本当にありがとう。拓翔と話してきた時間は、私にとって宝物でした。でも、もうこれで終わりにします」 送信ボタンに指を置いたまま、動けない。これを送れば、もう二度と拓翔と話すことはできない。この数カ月間、私の心の支えだった彼との関係が、完全に終わってしまう。 けれど、あんなことがあった以上、もう続けることはできない。現実を知った今、このままでは私たちの関係は嘘になってしまう。 私の指が、送信ボタンをタップした。 震える指で、続きの文字を打つ。「会わない恋人なんて、やっぱり無理だったんです。私たちは画面の向こうの存在のままでいるべきでした。リアルな私を知ってしまった今、拓翔が私に向ける優しさは同情でしかありません」 涙が画面に落ちて、文字が滲む。「私は、あなたに同情されるのが辛いんです。本当の恋人同士だったら、こんなことで関係が変わったりしないはず。でも私たちは違う。画面越しの、美しい幻想の中でしか成り立たない関係だったんです」 ここで一度手を止める。本当にこれでいいのだろうか。拓翔の気持ちを信じてみることはできないのだろうか。 何度考えても無理だ。彩音
翌日の朝、私は昨夜の出来事が夢だったのではないかと思った。 拓翔との電話。お互いの愛の告白。改めて、恋人として付き合っていけるという現実。 すべてが信じられないほど美しくて、温かい。 学校に向かう道のりで、私は何度もスマホを確認した。拓翔からの『紀子、おはよう。愛してる』というメッセージが、本当にそこにあった。「おはよう、拓翔。私も愛してる」 返信を送ると、すぐに返事が来た。『今日も一日頑張ろうね。紀子がいると思うだけで、なんでも乗り越えられる』 その言葉に、私の心は温かくなったのと同時に、不安もまた大きくなった。 教室に入ると、昨日のことを思い出して足がすくんだ。彩音はもういつものように席に座っていて、私を見ると意味深な笑みを浮かべた。「おはよう、神林さん」 彩音の声は昨日と変わらず甘い。でも、その目には昨日と同じ冷たい光があった。「昨日はごめんなさいね。ちょっとやりすぎちゃったかな?」 彩音の謝罪は、心がこもっていなかった。私は彼女を無視して自分の席に向かった。 休み時間になるたびに、私はいつものように、こっそり拓翔とメッセージを交換した。昨日、お互いの気持ちを確認し合った。そう思うだけで、胸がドキドキした。『紀子、大丈夫? 昨日のこと、学校でなにか言われてない?』 拓翔の心配そうなメッセージに、私は少し罪悪感を覚えた。「大丈夫。拓翔がいるから」 本当は大丈夫じゃなかった。今日は彩音になにもされていないけれど、クラスメイトたちの視線が気になって仕方がなかった。昨日のことで、私を変な目で見ている人もいる。 昼休み、拓翔から電話がかかってきた。私は人目のない場所を探して、階段の踊り場で電話に出た。『紀子?』「うん」『声を聞けて安心した。今日は大丈夫?』「大丈夫」 私は嘘をついた。本当は辛くて仕方がなかった。クラス中が敵のように思えるほどなのに。『本当に? なんだか元気がないみたいだけ
僕は部屋で一人、スマホの画面を見つめていた。 数時間前に送られてきた写真。そして、そのあとに続いた紀子からのメッセージ。『ごめんなさい』『これが、本当の私です』 写真の中の少女は、確かに一般的な美人とは言えなかった。でも、僕が感じたのは失望ではなく、むしろ安堵だった。 なぜなら、僕自身も容姿にコンプレックスを抱えていたから。小柄で、クラスメイトからは「チビ」とからかわれ続けてきた。 紀子が美人だったら、きっと僕なんかには見向きもしなかっただろう、そう思うとホッとしている自分がいる。 でも、それ以上に僕の心を動かしたのは、紀子の勇気だった。 あんなにも自分の容姿を嫌がって、会うことすら躊躇っていたのに。 自分の一番見せたくないだろう部分を、僕に見せてくれた。それがどれほど辛いことか、僕には痛いほどわかる。 それなのに、紀子はどうして突然、写真を送ってきたんだろう。「紀子、話そう」 僕はメッセージを送った。返事は来ない。 もう一度、メッセージを送る。「紀子、今から電話で話さない?」 僕は思い切って提案した。今まで文字でしかやり取りしたことがなかったけれど、今はどうしても声が聞きたかった。 日曜日に電話をする約束をしている。だけど、その前にどうしても話したい。 スマホが震え、紀子から返信が届いた。『ごめんなさい……私は拓翔に嘘をついてた』「そのこと。ちゃんと話そう。二人で」 しばらくして、チャットアプリの着信音が鳴った。僕は慌てて電話に出る。「もしもし」『あ、えっと……』 紀子の声は小さくて、震えていた。でも、とても優しい響きだった。「紀子?」『うん』「初めて声を聞けて、嬉しい」 文字とは違う言葉のやり取りに、胸の奥が温かくなってくる。 電話越しに、小さなすすり泣きが聞こえた。『拓翔、本当にごめんなさい』「なんで謝るの?」
「やめてよ……」 私の声は掠れていた。彩音の最後の言葉が、私の心臓を鷲掴みにしている。「本当のことを教えてあげない?」 その言葉の意味を理解した瞬間、私の世界が真っ暗になった。 彩音は私が醜いということを、拓翔に伝えようとしている。「お願いだからやめて! なんでそんな酷いことをするの!」 私は彩音に向かって手を伸ばした。でも、彩音は私のスマホを高く掲げて、私の手の届かないところに持っていく。「神林さん、そんなに必死にならなくてもいいじゃない」 彩音の声は甘いけれど、その目は冷酷だった。「酷いことだなんて、相手の人も知る権利があるでしょ? 付き合ってる人がどんな顔なのか」「付き合ってない!」 私は叫んだ。でも、それは嘘だった。少なくとも私の心の中では、今は拓翔と恋人同士なんだから。「へえ、そうなの? じゃあ、なおさら問題ないじゃない?」 彩音は私のスマホの画面を操作し始めた。私は血の気が引いていくのを感じた。「なに……してるの?」「写真を撮るのよ。神林さんの可愛い顔をね」 その瞬間、私は理解した。彩音がなにをしようとしているのかを。「だめ!」 私は彩音に飛びかかった。でも、彩音は素早く身をかわした。私はバランスを崩して、机に手をついた。「みんな、手伝って」 彩音がクラスメイトたちに向かって言った。彩音と仲が良い何人かの生徒が私を取り囲む。私は逃げ場を失った。「もういい加減にして! スマホを返してったら!」 私は涙声で懇願した。でも、彩音は聞く耳を持たなかった。「はい、こっち向いて」 彩音は私のスマホのカメラを私に向けた。私は必死に顔を隠そうとしたけれど、クラスメイトたちが私の手を押さえた。「神林さん、そんなに嫌がることないじゃない。ちょっと写真を撮るだけよ」 彩音の声は、まるで私のためを思っているかのよ
翌日、昼休みの教室で、私は一人で弁当を食べていた。いつものように隅っこの席で、できるだけ目立たないように身を縮めて。「ねえ、神林さん」 突然声をかけられて、私は箸を持つ手を止めた。振り返ると、またしても彩音が立っていた。その美しい顔に、いつもの意地悪な笑みを浮かべて。「なに?」 私の声は震えていた。昨日のことがあって、こんなふうに話しかけられても、警戒心しか湧いてこない。「昨日からみんな、ずっと気にしてるんだけど、神林さんってネットの恋人とメッセージのやり取りをしてるでしょ?」 そう言って、彩音は私の隣の席に勝手に座った。周りのクラスメイトたちがこちらを見ている。私は急いでスマホを隠そうとしたけれど、その手を掴まれた。「みんな、内容が気になるんだって」 彩音の声には、悪意をまとった響きがあった。クラスメイトたちのほとんどが、私と彩音のやり取りを見ている。「そんな……みんなが気にするようなこと……なにもないから」「へえ、そうなんだ」 彩音は立ち上がると、私の後ろに回り込んだ。そして、突然私の肩に手を置いた。「でも、今日も授業中こっそり見てたでしょ? 今度、先生にバレたら大変だよ?」 その瞬間、彩音の手が私のスマホに向かって伸びた。私は反射的にスマホを胸に抱え込む。「触らないで!」「なに隠してるの? そんなに必死になることないじゃない」 彩音の声は甘いけれど、その目は冷たかった。私は立ち上がって彩音から距離を取ろうとしたけれど、彩音は諦めなかった。「みんな、神林さんがチャットのやり取り、見せてくれるみたいよ」 彩音の声が教室に響くと、周りのクラスメイトたちがざわめき始めた。私は顔が真っ赤になるのを感じた。「やめてって、何度も頼んでるじゃないですか」 私の声は涙声になっていた。でも、彩音は止まらない。「そんなに隠すなんて、よっぽど恥ずかしいメッセージを送ってるとか?」
一夜明けて、私は重い足取りで学校に向かった。 昨夜は一睡もできなかった。彩音に秘密を知られてしまったことが頭から離れず、拓翔とのメッセージのやり取りも、いつもの楽しさを感じられなかった。『紀子、今日は大丈夫? 僕はずっと君のことを考えてた』 朝一番の拓翔のメッセージに、私の心は少しだけ温かくなったけれど、不安のほうが大きかった。「正直、怖い。桧葉さんがなにをするかわからないから……」『なにかできることはないか、って考えてるんだけど、いい案が思いつかなくて。話を聞いてあげることしかできなくて、本当にごめん』「拓翔が謝る必要なんてないよ。考えてくれていることが嬉しい」『もしなにかあったら、すぐに連絡して。僕もなにか方法を考えるから。一人で抱え込まないで。いいね?』 拓翔の優しさが、今は逆に辛い。彼にはなにもできないことがわかっているから。それでも拓翔を安心させたくて「うん」と返事を送った。 教室に入ると、彩音はいつものように友だちと楽しそうに話していた。私と目が合うと、彼女はにっこりと笑って手を振った。 その笑顔が、私には悪魔の微笑みに見えた。 一時間目の授業が終わると、彩音が私の席にやってきた。「おはよう、神林さん。今日も彼氏とメッセージしてるの?」 小さな声だったが、その言葉に私は凍りついた。クラスの誰かに聞かれたらどうしよう。「そんなの……桧葉さんは気にしないでください」「昨日はごめんね。でも、本当に面白いものを見せてもらったわ」 彩音の目が意地悪く光る。「お願い、誰にも言わないで。お願いだから」「う~ん、どうしようかなぁ……」 彩音は指を唇に当てて、わざとらしく考えるポーズをした。 意地悪なことを言っているのに、そんな顔も仕草も綺麗に見える。「それにしても、神林さんって意外と積極的なのね。『愛してる』なんて、恥ずかしいセリフをメッセージで送り合うなん